副題:「あいまいさ」の価値を活かして生きる
社会で発生している葛藤についての多くは、正義か不義かの領域の世界もあるかと思うが、相互の理解の不十分なことによる葛藤もあるのかと思う。こうした後者に起因する相互不信は、身近な人間関係だけでなく、国際的な紛争の問題にもつながる。
「あいまいさ」を許容することは、白黒をはっきりしないことでもある。それは、私たちが知りえる情報には、限度があるという謙虚さを持つことに他ならない。絶対の真実でるとか、絶対の悪という概念を強く持ち過ぎ、相手にそれを強要することにより、後戻りのできない人間的な感情の深い溝に落ち込んで、這い上がれなくなる。
今から35年ほど前、教会の礼拝堂で大人に合わせた初老の老人との会話が今でも鮮明に記憶に残っている。彼は敬虔なクリスチャンであり、教会に通う年月も長いベテランでもあった。また、いくつかの教会組織の役員も担われていた方でもあった。「世の中に絶対というものはないのだよ」と静かに語るその言葉の背景にある物語について語ってくれた。
市役所の拡張工事に伴い当時教会の礼拝堂が市役所に隣接していた場所から少し離れた場所への移転計画が持ち上がった時にさまざまな利便性を考えて現在の場所にとどまるか少し離れたところでより礼拝堂の機能を大きくした教会を建てるのかということで意見が分かれたとのこと。利便性のある現在の場所にとどまるか、少し離れてでも建物を大規模化してより多くの人を迎え入れるような環境を整えるのかということにはそれぞれの正当な理由がある。こうした両方に有効な理由がある議論というものは私たちの日常生活の中にもたくさん存在する。
当時の人たちが最終的にとった結論は隣接する市役所の場所から少し離れた場所へ移転をし、新しく、また大きな礼拝堂を建築し直すという選択であった。この議論の中で幾人かの仲間が教会を去られたという。「絶対的な正解というものはないのだよ」という彼の言葉は少し苦痛に満ちた表情から発せられていた。いくつかの困難と責任を背負ってきた言葉の重みが伝わる。
私自身にも、仕事において、経営において、人間関係において、さまざまな選択の場面でこれが正しいと思い、選んだ結果、大切なことや人を失ってしまう苦い経験が記憶の中に重く、そして深く沈殿している。
それでも私たちはいくつかの場面で「あいまいさ」を乗り越え、決断をしなければならない。そうした時にとるべき姿勢は、相手への敬意と自分自身に対する慎みの姿勢、そして、あらゆる結果責任を自身で受け止めるという静かな覚悟なのかと思う。これからも「あいまいさ」の時間的な余裕と思考の繰り返しの中で、関係する人たちとの会話を積み重ね、正しい語彙力と深い感情の理解を踏まえ決断をしていくことに向きあっていきたい。
この「あいまいさ」について少し長いコラムになってしまった。はじめに「あいまいさ」がもつ価値を評価し、次に「あいまいさ」が抱える危険性を考え、最後に「あいまいさ」を乗り越える覚悟とその立ち居振る舞いについて考えてきた。日本で学ぶ留学生の素朴な問いかけは、私自身の人に対する、仕事に対する、社会に対する、重要な問いかけにもなった。この「あいまいさ」と向き合い、その価値の可能性と危険性を認識し、最大限活かしていくことが、明日への希望につながるのだと。
今日一日が良い一日となりますように、悲しみと困難、不安に向き合っている方に希望がありますように。良い週末をお過ごしください。新しく始まる一週間が皆様にとって豊かな一週間でありますように。
2024年2月2日 竹内上人
【文中参考文献】
異文化コミュニケーションの様々な側面一言語以外の要素について 佐久間重(名古屋文理大学紀要 第3号 2003)
Beyond Culture(英語版) (1976) エドワード・T・ホール(Edward Twitchell Hall, Jr.
日本語訳『文化を超えて』岩田慶治・谷泰共訳、阪急コミュニケーションズ、1993年
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